生麦事件の報道新聞〔Ⅱ〕 

生麦事件現場:
(現在の国道15号線‘事件碑’のある辺り)(人物は無関係…事件後日ベアト撮影)
(最初に事件が起こったところなのか、リチャードソンが止めを刺されたところなのか
はっきりしないがどうも後者のようである)

(着彩者:前回と同じ)
生麦事件

生麦事件碑
(生麦事件の碑…上の現場写真と同じ場所なのかどうか?右に京急線のガードが見えます)

リチャードソンは初太刀を受けた後、騎馬のまま逃走、途中、鉄砲組久木村利休に二の太刀を浴びせられ、
落馬。数名の武士が畑に引きづり込み、とどめを刺す。とどめを刺したのは海江田信義(*)。苦しむのが忍
びなかったのであろう。(現場前の質屋兼豆腐屋、村田屋勘左衛門、大工徳兵衛女房よしのの目撃談)

*…以降、慶応4年(1868)新政府軍参謀として西郷隆盛を補佐し江戸城無血開城に立ち会う。官軍参謀
長州の大村益次郎との確執は有名。維新後は奈良県知事,貴族院議員。明治39年10月27日死去。75歳。
有村家からの養子。弟、有村次左衛門は水戸藩士等と桜田門外にて大老井伊直介を襲撃、切腹している。

リチャードソン以外の3名はアメリカ領事館、本覚寺 /(Ⅰ)の地図参照、に逃げ込み、医師ヘボン博士(ヘ
ボン式ローマ字考案者)の治療を受ける。マーシャル、クラークは日本でそれぞれの人生を全うし横浜外国人
墓地
で眠っている。マーガレットはイギリスに帰国後も事件のトラウマに悩み、1年後に子供をもうけ、
翌年に死去している。


その後、イギリスは幕府から11万ポンドの賠償金を獲得。更に公使ニールを通じて薩摩に対し謝罪・賠償
金を要求。薩摩は拒否。イギリスは艦隊7隻を率い鹿児島を砲撃/薩英戦争。その後の交渉にて25000ポ
ンド(6万両、60億)を支払、和解。以降、イギリスは薩摩・長州と親密となり、武器供与などで討幕を支
援するようになる。(幕府側にはフランスがつき、互いに討幕、佐幕をbackupすることとなる)。

幕末から明治初期の激動期は歴史ものとして大変興味があります、以前読んだ「明治維新という過ち」
 は別の角度から見た明治維新の歴史で、大変興味深いですよ
」 / N F さん。
 …そうですか、読んでみましょう。

次回:2/5 最近の陶芸作品
次々回:人形町七福神巡り

[2018/02/03 07:30] 歴史 | コメント(-)

生麦事件の報道新聞〔Ⅰ〕 

面白い新聞を横浜開港資料館で見つけました。報道内容…時は文久2年8月薩摩藩主島津久光の行列
(700人、江戸から京に戻る途中)を横切った(実際は避けようとして馬の制御ができなかった模様)
イギリス人4人(女性1名含む)が殺傷された。リチャードソンは死亡、他は2名負傷するも命から
がら逃げおおせた。女性ボロデイール夫人はほとんど無傷で逃げおおせことの詳細をイギリス側に
報告。このいわゆる生麦事件は後に国と国の外交問題に発展。幕府からは賠償金が払われたが薩摩

藩は拒否したためイギリス艦隊が鹿児島沖から砲撃を行った、いわゆる薩英戦争である。写真(Fベ
アト)はその現場、生麦村字本宮。目撃者、現場の前の質屋兼豆腐屋の村田屋勘左衛門と大工徳太郎
の女房よしの‘6人の武士がリチャードソンを畑に引きずり込みとどめをさした’との証言あり。当時
は尊皇攘夷吹き荒れ襲撃に加わった武士の一人は「なんとかして異人を切ってみたかった」…と回
顧している。当時‘異人切’が流行であった。

ものの本に依れば、本国のイギリス議会では、薩英戦争が始まる前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を
得ていた上に、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったと非難しています。海外では基本
的にそう言う報道だったそうです
」 / NFさん。

開講資料館と似たような名前ですが横浜開港記念館が近くにあります。

CIMG1938-1.jpg

(クリックで拡大)

生麦事件

(当時の画家ワーグマンが描いた絵を当時の写真家ベアトが撮影(白黒)したもの。原画は残っていない。
 馬上の右端の男性がリチャードソン。切り付けているのは薩摩藩士、示現流(じげんりゅう)(*)の達人、
奈良原喜左衛門(警護頭)と思われる。肩から腹にかけ切り下げられ重症を負う)

   *…幕末期、新撰組局長・近藤勇をして「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せ」と言わしめた。
     これらの薩摩剣法は初太刀での一撃必殺を旨としており、正面から初太刀を受けようとすると
     、真剣でもへし折られ、もしくは折られなくとも刀ごと押し込まれて斬られる可能性が高く、
     防御が困難なためである。実際、幕末期に示現流と戦った武士の中には、自分の刀の峰や鍔
     (つば)を頭に食い込ませて絶命した者がいた話は有名である。それほどに激しい剣法である。


(行列の向うから騎馬が進んで来た。警護の武士は「向うへ戻れ!戻れ!」と叫んだがそれが通じず、
 こちらへ向かって来る、主君の籠に近づけてはならぬ、…ということで切り付けたようだ。大名行
 列の日本の風習がわからなかった悲劇である)

(技量が低く、馬を上手にさばくことができなかったという説もあるがどうもそうではなさそう。
 彼らは乗馬の達人で特にリチャードソンは国に沢山の馬を持っていて、お気に入りの馬をわざわ
 ざ日本に持ってきてMy Horseとしていたほどであった)

(絵の着彩:Harry画伯)

示現流(じげんりゅう)の動画 ← クリック (初太刀・一撃の必殺剣法。肉を切らせて骨を切る。
捨て身で切りかかって行く。普段からその気迫を習得するために動画にあるような立木に向かって「きぇ~!」
という奇妙な声を発し単純な打ち込みを繰り返す)

生麦事件 (資料:引用)

2/1 日記:初めて買った電気圧力鍋で肉じゃがを作ってみた。出来上がりは上々、やわらかくて美味しい!
       うん、これはいい。最初にやったごはん炊きは少し固かったが今回は満足。今度は豚の角煮
       を作ってみよう。

     「やっとお料理に目覚めましたね!!奥深いので、ハリーさんにはうってつけの趣味だと思いますよ。
      趣味ではないか。実践あるのみ
」 / マッチさん
      …はい、そうです。今まで17年間も‘料理教室’に通って、家で作ったのは最初の方だけ最近は
        家ではやっていませんでした。余り凝ったものは家では一寸無理。比較的簡単なものをやっ
        て行こう。→ 2/2 今日は前回失敗したごはんを炊いてみます。→大成功。ふっくらとうまい
        ごはんが出来た。嬉しい。こんな程度のことで喜んでいる単純さ。

     「美味しいご飯が炊けて良かったですね!ちょっとしたことが、嬉しいことが大切です。そこから、
      どんどん深みにはまっていくのです。1年後にはすごい腕があがっていたりして・・・
」 / マッチさん
      …乞うご期待。(しかし僕は月1回の‘男の料理教室’を17年もやってるのよ。作った料理は数知れず)
      

     「今はネット検索もすぐにできるので、色んなお料理に挑戦してみてくださいね!
       簡単でも美味しくできる料理、ありますからね。頑張って!!必要になると、できるように
       なるでしょう!?それはいつでしょうか?今でしょ!!
」 / マッチさん
      …ありがとう!趣味の領域までになればいいけどね~。合唱からリタイアした。旅行も行き
        にくくなった。狭まった趣味を料理でカバーしようかな?よし、決定!
      

次回:2/3 〔Ⅱ〕
[2018/01/30 07:30] 歴史 | コメント(-)

旧鍛冶ヶ谷村歴史散策 

11/14 本郷台駅→本郷石橋→本郷村最初の役場跡→村名表示柱→明治12年敷設の横浜道→小岩井家
→本郷ふじやま公園古民家→八幡神社→七曲横浜道→宮の前横穴墓群→正翁寺。10700歩。途中、小雨。

本郷台周辺は戦時中、海軍燃料廠の広大な敷地であった。北門は駅の北側、正門は現本郷中学辺り、
東門は柏陽高校の東端にあった。周りは石壁に覆われ、今も区役所や柏葉高校の道路脇に一部が
当時のまま残されている。

20161114-P3890001.jpg
現在の‘ふじやま公園古民家’:江戸時代末期の庄屋、旧小岩井家住宅を13年前に移築。関東大震災にて崩壊したものを
使える木材などを使って復元。2階は漢方薬(育児散)の乾燥場。

20161114-P3890002.jpg
当時の古写真:

20161114-P3890007.jpg
関東大震災で崩壊した建物の柱の礎石の下から珍しい小石が沢山出てきた。そこには墨でいろんな文字が書かれており一種の
お守りだと考えられている。
20161114-P3890008.jpg

古民家凛とした姿がいつみても立派です。あの雰囲気は落ち着けて素晴らしいところだと思います」/ Yさん。

続く:Ⅱ



[2016/11/26 12:30] 歴史 | コメント(-)

上杉謙信の源流を訪ねる 

戸塚歴史の会、大船・長尾城址から周辺の史跡を歩いてきました。コースは、長尾城址、御霊神社、長谷
寺(ちょうこくじ)、玉縄首塚、龍宝寺、フラワーセンター(昼食)、久成寺(くじょうじ)、貞宗寺、大船観音寺。
約10キロ。余り面白い内容ではありません。ご容赦を。



大船(鎌倉市)は古くは‘粟船’、‘青船’と呼ばれ、入江が迫り船で粟などの穀物を運搬していました。
大船駅の西側に北条早雲が築城した玉縄城址、その出城とされる長尾城址(長尾台)があります。長尾城は
上杉謙信(長尾景虎)の出身母体、鎌倉武士長尾氏の館がありました。勿論、今は建物などは残っておりま
せんが…。(長尾‘城’と言われていますが実際には城と呼ばれるようなものではなく、今で云う‘豪邸’、
‘館’でありました。この頃には小田原城のような勇壮な城はまだ存在しておりません)

P3170003.jpgP3170007.jpg
(左:長尾城址への進入路。ここからゆるやかな登り坂となり展望のよい開けた丘陵の上に出ます)、

(右:館の横に掘られていた堀(大堀)の跡。今は土が盛られて一面畑になっているが以前はこれより
   15~20mの深さで大きな堀が掘られていた。左に少しだけ見える舗装路から右側全部がそうである)

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(現地の説明板…汚れていて読みにくいですが…。こういう説明文はどこでも長ったらしくて最後まで読めませんね~)

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左:道の向う側から上ってきました。手前は前の写真の‘大堀’跡。ガードレールのある高いところは長尾砦のあったところ。

右:砦(館)のあったところ。向う側から歩いてきました。‘強者どもが夢のあと’ですね。

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「大変勉強になります。暑い中ご苦労様です」…Cさんのコメント。どうもありがとう。

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左:龍宝寺…1503年、北条綱成が建立。曹洞宗。境内は広い。好きなお寺の一つ。落ち着きます。 
右:久成寺(ぐじょうじ)…1520年建立。徳川家と縁が深く三葉葵の紋が許されている。

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久成寺(ぐじょうじ

次回:7/14 モーツアルト・ミステリー

[2013/07/09 08:00] 歴史 | コメント(-)