旧鍛冶ヶ谷村歴史散策 

11/14 本郷台駅→本郷石橋→本郷村最初の役場跡→村名表示柱→明治12年敷設の横浜道→小岩井家
→本郷ふじやま公園古民家→八幡神社→七曲横浜道→宮の前横穴墓群→正翁寺。10700歩。途中、小雨。

本郷台周辺は戦時中、海軍燃料廠の広大な敷地であった。北門は駅の北側、正門は現本郷中学辺り、
東門は柏陽高校の東端にあった。周りは石壁に覆われ、今も区役所や柏葉高校の道路脇に一部が
当時のまま残されている。

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現在の‘ふじやま公園古民家’:江戸時代末期の庄屋、旧小岩井家住宅を13年前に移築。関東大震災にて崩壊したものを
使える木材などを使って復元。2階は漢方薬(育児散)の乾燥場。

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当時の古写真:

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関東大震災で崩壊した建物の柱の礎石の下から珍しい小石が沢山出てきた。そこには墨でいろんな文字が書かれており一種の
お守りだと考えられている。
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古民家凛とした姿がいつみても立派です。あの雰囲気は落ち着けて素晴らしいところだと思います」/ Yさん。

続く:Ⅱ



[2016/11/26 12:30] 歴史 | コメント(-)

上杉謙信の源流を訪ねる 

戸塚歴史の会、大船・長尾城址から周辺の史跡を歩いてきました。コースは、長尾城址、御霊神社、長谷
寺(ちょうこくじ)、玉縄首塚、龍宝寺、フラワーセンター(昼食)、久成寺(くじょうじ)、貞宗寺、大船観音寺。
約10キロ。余り面白い内容ではありません。ご容赦を。



大船(鎌倉市)は古くは‘粟船’、‘青船’と呼ばれ、入江が迫り船で粟などの穀物を運搬していました。
大船駅の西側に北条早雲が築城した玉縄城址、その出城とされる長尾城址(長尾台)があります。長尾城は
上杉謙信(長尾景虎)の出身母体、鎌倉武士長尾氏の館がありました。勿論、今は建物などは残っておりま
せんが…。(長尾‘城’と言われていますが実際には城と呼ばれるようなものではなく、今で云う‘豪邸’、
‘館’でありました。この頃には小田原城のような勇壮な城はまだ存在しておりません)

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(左:長尾城址への進入路。ここからゆるやかな登り坂となり展望のよい開けた丘陵の上に出ます)、

(右:館の横に掘られていた堀(大堀)の跡。今は土が盛られて一面畑になっているが以前はこれより
   15~20mの深さで大きな堀が掘られていた。左に少しだけ見える舗装路から右側全部がそうである)

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(現地の説明板…汚れていて読みにくいですが…。こういう説明文はどこでも長ったらしくて最後まで読めませんね~)

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左:道の向う側から上ってきました。手前は前の写真の‘大堀’跡。ガードレールのある高いところは長尾砦のあったところ。

右:砦(館)のあったところ。向う側から歩いてきました。‘強者どもが夢のあと’ですね。

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「大変勉強になります。暑い中ご苦労様です」…Cさんのコメント。どうもありがとう。

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左:龍宝寺…1503年、北条綱成が建立。曹洞宗。境内は広い。好きなお寺の一つ。落ち着きます。 
右:久成寺(ぐじょうじ)…1520年建立。徳川家と縁が深く三葉葵の紋が許されている。

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久成寺(ぐじょうじ

次回:7/14 モーツアルト・ミステリー

[2013/07/09 08:00] 歴史 | コメント(-)

続・続‘歴史教室’ 

2012/9/18の記事‘歴史教室’、2012/9/20の記事‘続・歴史教室’に続き、生麦事件追加記事。
1/6の鶴見散策で新しい資料が得られましたので。前の記事も参照して見て下さい。

生麦事件道路配置図-1
生麦事件道路配置図-2

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(現 I 氏邸前…襲撃のあった場所 / リチャードソンが絶命した場所ではない)

次回:3/7 栄区書道協会展
[2013/03/05 08:00] 歴史 | コメント(-)

続:歴史教室 

生麦事件現場:
(現在の国道15号線‘事件碑’のある辺り)(人物は無関係…事件後日ベアト撮影)
(最初に事件が起こったところなのか、リチャードソンが止めを刺されたところなのか
はっきりしないがどうも後者のようである)

(着彩者:前回と同じ)
生麦事件
生麦事件碑
(生麦事件の碑…上の現場写真と同じ場所なのかどうか?右に京急線のガードが見えます)

リチャードソンは初太刀を受けた後、騎馬のまま逃走、途中、鉄砲組久木村利休に二の太刀を浴びせられ、
落馬。数名の武士が畑に引きづり込み、とどめを刺す。とどめを刺したのは海江田信義(*)。苦しむのが忍
びなかったのであろう。(現場前の質屋兼豆腐屋、村田屋勘左衛門、大工徳兵衛女房よしのの目撃談)

*…以降、慶応4年(1868)新政府軍参謀として西郷隆盛を補佐し江戸城無血開城に立ち会う。官軍参謀
長州の大村益次郎との確執は有名。維新後は奈良県知事,貴族院議員。明治39年10月27日死去。75歳。
有村家からの養子。弟、有村次左衛門は水戸藩士等と桜田門外にて大老井伊直介を襲撃、切腹している。

リチャードソン以外の3名はアメリカ領事館、本覚寺 /(Ⅰ)の地図参照、に逃げ込み、医師ヘボン博士(ヘ
ボン式ローマ字考案者)の治療を受ける。マーシャル、クラークは日本でそれぞれの人生を全うし横浜外国人
墓地
で眠っている。マーガレットはイギリスに帰国後も事件のトラウマに悩み、1年後に子供をもうけ、
翌年に死去している。


その後、イギリスは幕府から11万ポンドの賠償金を獲得。更に公使ニールを通じて薩摩に対し謝罪・賠償
金を要求。薩摩は拒否。イギリスは艦隊7隻を率い鹿児島を砲撃/薩英戦争。その後の交渉にて25000ポ
ンド(6万両、60億)を支払、和解。以降、イギリスは薩摩・長州と親密となり、武器供与などで討幕を支
援するようになる。(幕府側にはフランスがつき、互いに討幕、佐幕をbackupすることとなる)。終了。

次回:9/23 千畳敷カール(Ⅱ)
[2012/09/20 11:07] 歴史 | コメント(-)