竜馬暗殺最終考(2)

101109今井信郎・渡辺篤
100802近江屋模型

上の写真(左:今井信郎/戊辰戦争当時、右:渡辺篤)
下の写真(近江屋室内図)

与頭佐々木只三郎は見廻組屯所にもどり今井信郎、渡辺篤、小林甚七、渡辺吉太郎、高橋保次郎、
桂早之助など6名を集めこう切り出した。

只三郎:「手代木さま、組頭より竜馬襲撃のご下命があった。なおこれは主君の意に沿ったもの
である。不首尾は許されぬ。切込み隊、自信のある者は…」
6名:「…」
只三郎:「それでは拙者が指示する。今井と渡辺篤は切込み、小林はひとつ前の部屋にて待機、
異に際し踏み込め、拙者は階段近辺にて差配する、他のものは家人の拘束、外場の警戒、伝令役
とする、よいか!」
6名:「かしこまりました。それで実行の日は?」
只三郎:「探索方の知らせにより沙汰する。各々方、準備怠りなきよう」
6名:「承知」

かくして、遂に慶応3年11月15日冷え込みのきつい夜、「十津川郷士の者だが坂本先生に
面会したい」と名刺を出して一気に潜入。中6畳→奥6畳を経て、奥8畳の襖をそろりと開け
るや~、
今井:「坂本先生暫くです!」
火鉢を挟み手前の近場に座っていた土佐陸援隊隊長、中岡慎太郎:「どちらさまで~」

ここで今井、渡辺、すかさず抜刀。今井は中岡に、渡辺は竜馬に切りかかる。寺田屋事件以来
で竜馬の顔も記憶が薄れている。まして行燈の暗い明かりの中、今井は「どちらさまで~」と
応えた中岡を竜馬と勘違いした。
暫くの乱闘の末、首尾よく両名殺戮。渡辺は刀の鞘を残したまま今井ともども逃走。落ち合う
ところ、宿舎松林寺まで一目散。渡辺は後々の文書に「道々の木戸(今の交番)の無いところを
選び、抜刀したままの刀を隠しながら走っ

た」など詳細に書き記している。一方今井は明治になってから「竜馬を殺ったのは自分である」
…と告白している。これは‘売名行為’との評価もあるが、‘中岡を竜馬と勘違いし、その後
も自分がやったと思い続けている可能性’も否定できないのではないか。当時は情報が今ほど
すぐにしかも正確に伝わらなかったご時世である。

最後に当然ながら誰も現場を見たものはいないのだから真実はわからない。残された文書・証拠
を冷静に客観的に判断・分析しそれぞれの史観で推察するしかない。逆にこれだけのロマンを秘
めた事柄は永久に‘ああだ~こうだ’と話題を提供し続けた方が楽しいと思う。長々とお遊びに
お付き合いいただきましてありがとうございました。

次回7/21は炎天下の鎌倉散策です。


[ 2011/07/18 08:00 ] 坂本竜馬 | TB(-) | CM(-)

竜馬暗殺最終考(1)

100728竜馬暗殺掛軸

7/8日NHK BSプレミアムの‘歴史館’を見て続きを書きたくなりました。2010/8/25竜馬暗殺考4のアンダーラインのところ
を中心に続編として小説風に遊んでみました。実行犯・黒幕についての推論は変わっていません。

京都守護職松平容保臣下、会津藩公用人、手代木直衛門(てしろぎすぐえもん)が死の数日前、こう告白している。「坂本竜馬
をやったのは実弟の只三郎である」また「某諸侯の命により」…とも。京都見廻組を使って仕事をさせることのできる‘諸侯’
とは?見廻組を管轄する守護職、会津藩主、松平容保以外にあり得ないのである。その時のやりとりは次の通り(H創作)。
(公用人…幕府との折衝を担う役、留守居役のようなもの)
(見廻組…旗本・御家人の二男、三男で構成された幕府方の取締組織。上昇志向がないので新選組ほど鮮烈ではない)

直衛門:「殿、薩長同盟、大政奉還を画策した坂本竜馬という輩、危なくて放っておけませぬぞ」
容保 :「坂本竜馬とは何者か」
直衛門:「土佐の脱藩浪士にて薩摩、長州、土佐などと図り幕藩体制を覆そうと画策する不届きの輩であります。大政奉還後、
新政府樹立の綱領を目下起案中とか、放置すれば徳川家にとり致命の事態と相成り候こと必定と存じます」
容保 :「如何すればよいか」
直衛門:「寺田屋騒動にて幕府方役人を短筒にて殺傷したる下手人故、手配中ではありますがこの際一段と強力に捕縛し、
動きを封ずるのが得策かと存じます」
容保 :「土佐と支障は起きぬか?」
直衛門:「心配ご無用にございます。土佐藩もひそかに密偵を放ち竜馬の動向を探っておりまする。容堂公も‘何をしでかすか
わからぬ’と案じておられるとか…」
容保 :「相手は手ごわいのではないか?捕縛できるか?」
直衛門:「手に余れば、止むを得ず…です」
容保 :「そうか…。わかった。それでは、そちに任せる。よきに計らえ」
直衛門:「かしこまりました。それがしにお任せ下さい」

直衛門の腹は既に決まっていた。下手に捕縛などすればその身柄を巡って必ず面倒なことになってくる。ここは誰がやったか
わからぬように抹(暗)殺してしまうに限る。幸い、竜馬は薩摩、紀州、新選組など多方面から恨みを買っている。こっそりやって
しまえばわからない。早速、見廻組組頭 蒔田相模守広孝らと実弟の京都見廻組与頭、佐々木只三郎を呼びつける。

直衛門:「他でもない。竜馬を殺れ。主君の許しを得た。手練れを選りすぐり、密かにな。痕跡は残すな、よいか」
只三郎:「承知つかまつりました。密偵探索により大体の居場所はつかんでおりまする。暫くのご猶予を。必ずしとめまする」
221822松平容保221822手代木・只三郎
(左より:松平容保/晩年・京都守護職時代、手代木直衛門、佐々木只三郎/引用)
続く:‘竜馬暗殺最終考 (2)’
[ 2011/07/15 08:00 ] 坂本竜馬 | TB(-) | CM(-)

竜馬暗殺考(最終回)

今日の20時頃は坂本竜馬らが襲撃された日に当たります(新暦)。近江屋後裔井口家所蔵文書(明治33年)
には「脳傷ノ為メニ倒レラレタル処ヲ、二刺喉ヲ刺シタリ。然レドモ同氏ハ刺客ガ帰ルガ否ヤ、家ノ
主人ヲ呼ビ医師ヲ命ゼラレタリシガ」…とある。また同志林謙三(維新後は男爵海軍中将安保清康)は

事件の4日前、竜馬からの手紙を大阪にて受け取り誘われるように偶然16日未明修羅場へ駆けつけ
る。「処々ニ血痕ノ足跡ヲ認ム。余ハ階上ニ突進シ、氏ノ室ヘ入ルヤ、氏ハ抜刀ノママ流血淋漓ノ中
ニ苦悶セリ。眼ヲ次室ニ転ズレバ石川清之助(中岡)半死半生ノ間ニ苦悶セリ。又隣室ヲ望ムニ従僕

(藤吉)声ヲ放ッテ苦悶シツツアリ。ソノ背部ニ大傷ヲ見ル既ニ絶命ニ近シ」(犬尿略記)…と書き残し
ている。妻お龍(当時27歳)はその時刻、下関本陣の伊藤助太夫家で夢を見たと書いている。「竜馬が
全身紅ニ染ミ、血刀ヲ下ゲションボリト枕元ニ座ッテ居リ、モシヤト独リ心ヲ苦シメテ居リマシタ」

(反魂香)。お龍はその後明治8年第二の夫、西村松兵衛と再婚し横須賀に落ち着いた。明治39年1
月、米が浜海岸通りの裏長屋で寂しく息を引き取った。享年66歳。晩年は「竜馬が生きていたら…」
と口癖のようにつぶやいていたという。
101127お龍横須賀米が浜
(京浜大津、信楽寺にお墓がある。右は土地の人によって米が浜に標識版が立てられた)
101128お龍
(お龍の若い時/33歳ころ?と晩年のお龍)

竜馬が若い時に詠んだ歌:
     「世の人は 我をなにともゆえばいへ 我がなすことは われのみぞ知る」

100701坂本竜馬生家
(坂本竜馬生家古写真…郷士足軽の家が立ち並ぶ上町の一角にあった才谷屋。明治に入って旅館や
蚕種商店に変わりその後戦災に合い消失)


(11/28大河ドラマ最終回の襲撃シーン。結局襲撃犯が誰かは特定していませんでしたが最後の俳優の
字幕に京都見廻組佐々木只三郎、渡辺篤、今井信郎…の名前が出てきました。)
(これで数回にわたり連載してきたシリーズは終わります。僕も勉強になりました)
次回:散在ケ池(2)
[ 2010/12/10 08:00 ] 坂本竜馬 | TB(-) | CM(0)

竜馬暗殺考(4)…黒幕?

旧暦の今日11/15は坂本竜馬・中岡慎太郎が襲撃された日にあたります。新暦で云えば12/10日。暗殺
の黒幕については竜馬暗殺考(初),(1)で、新選組、薩摩藩、長州藩、外国勢力、高台寺党、見廻組説
など取り上げて来ましたが前回の(3)にて一応、京都見廻組と断定しました。他の説には有力な根拠が

ないからです。それでは見廻組に命令した‘黒幕’は誰でしょう?言うまでも無く見廻組は幕府の組織
ですから常識的に幕府の上層部から出たものです。この場合は公務の執行ですから‘黒幕’という言葉
は適切ではありません。竜馬は以前の‘寺田屋事件’で幕府の捕り方をピストルで射殺している指名手


配中の‘殺人犯’及び‘大政奉還を画策し二百数十年続いた徳川幕府に終止符を打たせた体制側の遺恨’
やらで京都所司代・守護職から見廻組に対して捕縛命令が出ていました。与頭佐々木只三郎の命により
今井以下6名が集められ‘万一手に余り候えば討ち取り候よう御指図これあるに付’との指示を受けた

(今井談)。明治3年、今井の供述を検証するため刑部省は元見廻組トップ小笠原河内守に事実を確認し
検証している。…ということで幕府上層部からの指示であったことは間違いないと考えます。
(…という結論になりますが今井が述べている通り‘暗殺ではない’かどうかは微妙なところ。公務執


行には違いないが‘闇討ち=暗殺’に近いものだったと思います。前回の二の舞を踏みたくないので瞬
時にかたをつけたいと考えたのではないでしょうか?)坂本竜馬に関する記事掲載は12月10日で以て一
応の終わりとします。今後のNHK大河ドラマのこの場面ががどのように設定されているか楽しみです。

竜馬暗殺考4
に襲撃犯、今井(鳥羽伏見の戦いの時の装束)、渡辺(いい男だね)の若い時の写真を追加しておきました。

追記:(11/22日、記)
暗殺前月の10月、慶喜の大英断にて大政奉還が行われましたが幕府側諸藩のすべてが納得したわけではありません。
特に会津藩などの強硬派は何とかして幕府、いや徳川の復権を画策していました。新政府に向けた薩長の共同作戦が進む
中、その「大綱領」を作成していた竜馬は幕府復権派から薩長よりの案との危惧を抱かれ狙われていたと思われます。

しかし竜馬はその「大綱領」の中で新政権の中心は○○○と伏字にしていました。後で公表する積りだったのでしょう。
この3文字に当てはまるのは‘大樹公’即ち徳川慶喜公であったと思われます。現に‘徳川幕府は潰すが慶喜公の面子
をつぶすことの無いように’と配慮しています、佐幕派諸藩の不満を抑えるために~。ここまではわからず会津容保の

側近、手代木直右衛門(京都見回組の頭、佐々木只三郎の実兄)ら会津藩公用方は佐々木に因果を含ませ実行に及んだ
のではないかと考えられます。

次回:横浜根岸界隈を歩く
[ 2010/11/15 20:10 ] 坂本竜馬 | TB(-) | CM(0)