三殿台にて古を偲ぶ。 

091227三殿台遺跡
(約3000年の間、ここでいにしえの人達が暮らしていました。全部で250軒を
越す遺跡。縄文/8軒、弥生/151軒、古墳時代/43軒ほかの竪穴住居跡。
国の史跡。手前は‘弥生’、少し見にくいですがずっと奥に‘縄文’の
2棟があります。標高55mの小高い丘に1万㎡のフラットな敷地があり住
みやすかったのでしょう。歴史のタイムスリップを味わって下さい。
敷地に見える多くの丸い‘囲み’は住居の跡です。)

 ‘囲み’がだぶっているものは何か?…ということですが、火災などで焼失し
  新しく穴を掘り新築・増築したケースがあります。わらぶきですので簡単
  に燃えてしまいます。多分そうではないかと想像するのも面白いものです。


2000年前と云えば古代ローマ時代。皆さんご承知のようにすでにこの
写真
のごとくすごい都市が建設されていました。同じ頃我日本は地面
に穴を掘り柱を立てわらぶき屋根の生活です。この大きな落差!農耕
民族と狩猟民族の差?島国と常に侵略の危機にさらされている地続き
の差?しかしその後明治の文明開化と共に得意の模倣文化に花が咲き
追いつき追い越せでとうとう彼らを凌駕する域にまで達しました。
すごい能力を持っているのですね、我々日本人は。


091227三殿台遺跡
(約2000年前弥生中期の竪穴住居/復元)
 (竪穴とは地面を縦に掘り下げた穴という意味ですが‘竪’を漢和辞典で引くと
 ‘真っ直ぐに立てる’とあり正字は‘豎’、‘竪’は異字です。‘縦穴’として
  もいいと思うのですが学者がかっこつけたのでしょう。対する言葉は横穴古墳、
  鎌倉に多く存在する横穴墓/おうけつぼ、などの‘横穴’です。)

091227
(内部:四本の柱に支えられた入母屋造り。床の北側に炉が掘られていました。
‘台所’は屋内にあったでしょうから火災は起こりやすいでしょうね。周囲は雨水溝

訂正します。土の壁がむきだしだと冬は寒い訳でこの溝に沿って細木や、
わら・よしずなどを置いて断熱材にしたか生活に必要なこまごました‘家財道具’
を並べたもののようです/1月8日大塚・歳勝土遺跡の専門説明員のお話。
なお、奥に見える1.5m位の土壁は建物の外周に土盛りして雨水や獣
などが入って来ないようになっています。因みに床面と外の地面は
ほぼ面いちになっています。


091227三殿台遺跡
(この2棟/復元は5000年前の縄文中期のもの。この日当たりのよい丘に数件の‘ムラ’を造って住んでいました。)
(縄文は約4~5千年前、弥生は2~3千年前と考えて下さい)

091227三殿台遺跡
(発掘当時の姿が処理を施され建物の中に保存されています。町中で発見された
遺跡の多くは宅地開発などで調査が終わると埋め戻されてしまうのが通例です
が国の史跡でもあり保存されています)

(斜め右上の四角いへこみ部分は何でしょう?雨水溝と同じレベルになっている
 から‘雨水だまり’か?現在の住宅街の遊水地みたいなもの?排水溝に水が
 どんどん溜まって行くと部屋の中まで水びたしになりますね…。こんな狭いス
 ペースに沢山あいている穴は柱の穴ではないでしょう。ここに低い支柱を立て
 ‘すのこ’を引いてリビングルームと行き来していたのでは?勝手な想像)

 →上と同様に訂正します。この四角いところは部屋の中の一部だったようです。
  
091227三殿台遺跡
(深鉢形土器:縄文中期。どうでしょう、この力強いデザインは!有名な縄文の
 火焔土器とも違った形です。弥生までは技術がなく‘野焼き’即ち地表で大気
 の酸素をふんだんに使い焼成しますので酸化鉄で赤っぽくなります。
 
 少し解説:古墳時代あたりからは須恵器が多くなり窯を作り焼成の最終段階で
 窯の入口を塞ぎ酸欠の状態で更に焼き続けると土器の土の中の酸素が燃焼
 に使われ土器の色は土本来の‘灰色’となります/還元焔焼成法)

091227三殿台遺跡
(昭和36年発掘当時の写真。大昔は恐らく根岸湾がこの丘の下辺りまで迫り
 漁などをして生活していたものと思われます。魚の骨で作られた釣り針や
 矢じりなどが出ています。なお右下の三叉路のところに地下鉄弘明寺か
 ら出ている市バス‘三殿台公園’のバス停があります


次回の遺跡紹介は‘歳勝土遺跡’を予定しています。
[2010/01/05 08:00] 遺跡 | コメント(-)