大塚・歳勝土遺跡(&都築古民家) 

またまた地味な内容ですみませ~ん!遺跡お勉強の時間で~す。
次回投稿2/1までの間、何回かの追加説明を加えます。

昭和43年港北ニュータウン開発にて発見。当時の空中写真。
実際の遺跡は左側の県道が縦長に縦断し分断されています。
これは聞くところによるとこの近くに‘茅ヶ崎城’の遺跡発見
がありここを開発から外す代わりの役人同士の譲歩だそうです。
100108大塚・歳勝土遺跡

‘大塚’…とは‘上杉関東管領’の大きな塚があったということで今も
この近くに大塚という地名があります。‘歳勝土’(さいかちど)…‘歳勝’
とは‘くわがた虫’のことで‘土’がついて‘くわがたのいるところ’の意。
主として‘大塚’は集落、‘歳勝土’はお墓の遺跡です。集落と墓がセット
になっている‘ムラ’は非常に珍しいものです。


4回目の訪問になりますが初めて地元のボランテイアさんの説明を聞きました。
市営地下鉄‘センター北’でおりて10分ほどのところに‘横浜市歴史博物館’
がありその2階に案内してくれるボランテイアさん達がいます。
遺跡(国史跡)はここの3階から陸橋を歩いて5分位のところ。

遺跡全体にはすべて1.5mの盛土が施されていて、実際の姿は1.5m下に
隠れているということです。これはどこの遺跡もすべて同じ。理由は
後世に掘り起こして再調査できるように現物保存されているのです。

100108大塚・歳勝土遺跡
(縄文・弥生・古墳時代と続いた遺跡で‘累積遺跡群’と呼ばれます)
(3時代合計の住居跡の数は115軒ありますが大体20軒程度が同時に
 建っていた数と考えられ人数はおよそ100人程度と想定されています)

100108大塚・歳勝土遺跡
(外敵からムラを守るため大きな濠を巡らしています(環濠)。外側には木柵・土塁がつられていたようです)
(縄文時代は集団というものがまだそれ程発達しておらず従って‘争いごと・戦争’というものが無かった
 のですが弥生に入ると次第に権力者・リーダーが生まれ、食料調達を主として抗争が始まったようです。)

100108大塚・歳勝土遺跡
(建物の形は唯一登呂の遺跡で発見された建物の残骸や土器に描かれた絵などによって
 想定された形です。従ってどこの遺跡でもこれに倣って同じような形になっている筈です。)
(この建物を造るのに1棟2千万ほどかかったとのことで、一寸したマンションが買える値段です)

(住居跡の形は縄文は‘○’、弥生は‘○’か‘楕円’、古墳時代は‘□’が多いです。この
 写真は弥生から古墳時代かけてに3回建てかえられています。ここだけは地面から
 1.5m下がった当時の位置で特殊な化学処理を施されて再現されています。あいてい
 る大き目の丸い穴は食料の貯蔵用、小さいのは柱を立てる穴、左側の‘開口部’は
 床暖房‘オンドル’みたいな物かまたはバリアフリーのスロープではないか…など
 とも云われており勝手に想いを巡らすのも楽しいことです)

100108大塚・歳勝土遺跡
(8本の整然と並んだ柱の穴の形から想定してこれはこのような高床式のとち、
 どんぐり、くるみ、いもなどを備蓄した
穀物倉庫であろうと考えられています)
(脚柱に‘ねずみ返し’がついていますね。この知恵は古墳時代から多くなるのですが…)

(手前の木の臼は浜松の遺跡から出たものとそっくり同じ形で作られています。
 しかしこの形のものがここで使われていたとは一寸考えにくいです)

100108都築古民家
(江戸時代の都築郡牛久保村の旧家で名主を務めていた長沢家住宅
 が遺跡から地続きで約5分位で行けます)(横浜市有形文化財)
100108都築古民家
(内部。一番奥が代官などの役人をもてなした部屋/一つ前の写真の一番左側の部屋)
100108都築古民家
(名主なので‘寿’の字を入れることが許されていました。屋根に張ってあるのは鳥よけのワイヤーです。
 これによって長年悩まされていた‘鳥害’から開放されたとのことでした。)
[2010/01/28 08:00] 遺跡 | コメント(-)