軍艦島(Ⅰ)

長崎港の南西20キロ(船で40分)の沖合いに位置する‘端島(はしま)’通称、軍艦島。南北500m、東西160m、周囲1200mの小さな海底炭鉱の町
であった。塀が島全体を蔽い高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦‘土佐’に似ていることからそう呼ばれるようになった。1974年閉山後
永い眠りについていたが2009/1月世界遺産暫定リストに掲載され、いま新しい歴史を刻もうとしている。

(注:軍艦土佐の長崎三菱造船所進水時のめずらしい写真です。ワシントン条約にて破棄が決定され大正15年に一回も使われずに豊後水道
に海没処分された。いつの時代も国費の無駄遣いは絶えない。この艦の主砲は後に本土防衛のため、九州壱岐の島に移されたがここでも一回
も使われずに撤去された/10月1日、壱岐訪島時の砲台跡の写真。ここに戦艦土佐の大砲があったとは驚きでした)
221019軍艦島
(高島も元は三菱石炭鉱業の主力炭鉱であった。端島とは約3キロ離れている)
(9/8に訪問。ラッキーでした。タクシーの運転手さんに上陸できる確率は大体6割位と聞かされていましたから。
晴天でも波によっては陸側が浮桟橋ではないので危険で上陸できないとのこと)

まずは(1)で外側から一周の外観を。

222019軍艦島
(南東からの全景…左から、工場群、鉱員・下請社宅/崖の左、貯水槽、職員・幹部社宅2棟/風呂付、端島神社/樹木に突き
出ている部分、鉱員社宅・屋上幼稚園/島内最大の建物、体育館、端島小中学校)
(一般鉱員用の風呂は共同浴場で崖の左の鉱員社宅の向う側にある。まずは海水で汚れを落とし上がり湯だけ真水であった)
(船の見えるところが船着き場)

221019軍艦島
(東側からの全景。左端、断崖のてっぺんの‘貯水槽’、‘職員住宅/5階建’、中央部から右へ順に7階建ての‘端島小中学校、
9階建鉱員社宅・屋上に幼稚園・1階に警察派出所/留置所’、‘4階建端島病院’、‘2階建隔離病棟/一寸見えにくい’)
(1日700トンの生活水は船で運ばれポンプで崖上の貯水槽へ貯められていた。昭和32年以降は海底水道/世界初が敷設された。
長崎半島から全長6500m、世界最長)

221019軍艦島
(北東からの全景…今は波静かですが台風の時はこの反対側の西から風に乗って波しぶきが東側まで飛んできたとか)
(‘大波見物’は軍艦島風物詩の一つだった。台風を怖がるようでは本物の島人にはなれなかったという)
222019軍艦島
(北側から。端島病院、隔離病棟など。まじかに迫るとやはり異様な光景です)
(中央奥に見える白い屋根みたいものは多分、端島神社の祠/ほこら、だろうと思います。その下の神殿は崩壊してありません)
(釣人がいますが多分、高島から漁船が送り迎えをしているのでしょう。塀の中は長崎市の持ち物だが岸壁だけは国交省管轄)
(参考情報:島のレイアウト図説明表



(A面…北西方向から。左から鉱員社宅、公民館、31号棟鉱員社宅・郵便局・地下共同浴場)
(B面…西方向から)←A面の空の部分にマウスのカーソルを置いて下さい。
海底炭鉱の深さは1000mにも達し、温度36度・湿度90%の中で8時間働く。1に体力2に腕力3に眼力と云われた。その代わり給与
は他の業種の肉体労働者よりは高く昭和48年当時で平均12万円、賞与は年35万ほどだった。生活費もそれほどかからず入浴料や
家賃は当初はただであった。現在価値に換算するとおよそ40万、120万位か。

A面…南西方向から。左は‘高島’
B面…南方向から(‘バトルシップ 秋暑の海に よみがえり’…冒頭部の軍艦‘土佐’の写真になんとなく似ていませんか?)


次回…10/19(Ⅱ)島の内部の写真、(Ⅲ)同じく、(Ⅳ)建物内部の写真/最終回、沢山撮りました。暫くお付き合いを…。
18日、1日だけ‘栄区合唱祭’の再度のお知らせを~。
[ 2011/10/13 08:00 ] 世界遺産 | TB(-) | CM(-)